5ヶ月ぶり。
久しぶりにログインしてみました。
もう二度と更新されないだろう・・・と思われていましたよね。
少なくとも、私はそんな気がしていましたが。
なんだか悠長に自分の歴史なんて綴っている場合じゃないような、そんな気持ちになるようなことがあって。
こうしてログインしない間に、もう消えてしまってるんじゃないかなぁ・・・なんて、それはそれで仕方ないか、なんて思っていましたが。
まだ、あった(笑)
久しぶりに、いろんな方の更新を読ませていただきながら、時間の流れを感じています。
私も、気持ちに余裕が出来たら、ここ数ヶ月間のことを振り返ってみたいと思います。
しあわせなふたり
イタリアンを食べに行くと、ときどき思い出すことがある。
私がまだ小学生だった頃、家族で外食というと必ず行くイタリアンレストランがあった。
そこは大阪・北新地にある人気店で、予約は不可だったのか、父が怠っていたのか、とにかく毎回入口の壁際にずらりと並べられた椅子で、30分から1時間は待たされた。狭い店の壁には、キャンティのボトルが隅から隅までびっしりぶら下がっていて、私はいつもそれを不思議な気持ちで眺めていた。
小学生のくせに、その丸いボトルのワインが「キャンティ」と呼ばれていることを、私は知っていた。
ようやく席に案内されて、頼むメニューはいっつも同じ。
まず父は、「ピースポーター」と言う。
それはドイツの甘口白ワインで、一体なんで毎回イタリアンでピースポーターだったのか?なんだけど、今振り返ると、それは父があまりお酒を飲めなくて、だから無頓着で、それしか知らなかったものだと思われる。
とにかく小学生の私は、その名前をいつでも言うことができた。
そして料理は、お豆のいっぱい入ったミネストローネ、スップリ(ライスコロッケ)、ムール貝のパン粉焼き、カルボナーラ、モッツェレラのピザ。
もうここに来たときは、絶対これを食べるって分かっていた。
一応メニューを見ながら、母は私たちチビッコにも聞く。
「スップリ、食べる?」
「うん!」
「カルボナーラ、食べる?」
「うん!」
そして毎回同じように運ばれてくるその料理たちは、毎回間違いなく絶品だった。
イタリアンの何たるかも知らない子どもの言うことだけど、でもその店は新地という場所で毎晩あれだけ行列を作っていたわけだし、父が「マスター」と呼んでいたオーナーはいつも自らイタリアへ食材を買い付けに行ってるような人だったらしく(これは大人になってから聞いた話)、やっぱりそれなりのレベルだったのだろうと推測される。
何より、私は今でも、あの香草パン粉を振りかけて焼いたムール貝の、ガーリックとバターのなんともいえない幸せな香りを鮮明に思い出すことができるのだ。
そういえば子どもの頃、私は貝が一切ダメだった。
アサリも蜆も、ホタテもぜーんぶ大嫌いだった。
なのに、あの店では「ムール貝!ムール貝!」と大喜びで食べていた。
(なんちゅう子どもや・・・、と今の私なら頭をハタいてしまいそうだけど。)
そして最後には、お持ち帰り用のピザとスップリを必ず頼んだ。
またそれを、うちで温めて食べるのがしあわせだったなぁ。
(店を出たところには、なぜかヒロタのシュークリームの自動販売機があって、私は毎回母に「買って~」と言ったけど、それはいつも絶対却下だった。)
私が小学校を卒業するくらいまで、とにかく2~3ヶ月に1度は行っていた気がする。
外食イコール、このイタリアン。
父は、このお店以外にあんまり知らなかったのだと思う。しかし、どう考えてもグルメだとは思えない、食に無頓着な父が、どうしてこんな人気店を知っていて、常連だったのか・・・。
それからもう何年も経って、私はそれとなく母に聞いてみた。
すると母、「あぁそんなん、お父さんが自分で知ってたわけないやん!お姉さんに教えてもらったんやで。」
つまり話はこういうことである。
当時、それはまだ父と母が結婚する前、田舎に住んでいた母が大阪へ遊びに来るというので、父は「大阪を案内したる!」とエエカッコしようとしたらしい。
けど、出不精な父は美味しいお店とか、まるで知らなくて、お姉さん(つまり私の伯母さん)に、この有名なイタリアンをこっそり教えてもらったのだ。
いざデートの日。
「おいしいイタリアンに連れて行くから」と意気込んだ父、そして母。
ふたりはキタの街をぐるぐるぐるぐる・・・・・・・・。
そう、父は母の前で、道に迷ってしまったんである。
歩けど、歩けど、そのお店は見つからず・・・・。
「お父さん、あの時なぁ、自分が道に迷ったのに、だんだん機嫌悪うなってきてなぁ~。お母さん怖かったわぁー」と母。
父はそういう人である。今でも父は、運転中に迷ったりすると、勝手にどんどん機嫌が悪くなる。そして私たちが「こっちちゃうの?」と口出ししたりすると、「わかってる!!」とますますブチ切れる。
おぼっちゃんなのである。
そしてこの話、散々歩き回ってようやく見つけたその店は、なんと定休日。
途方に暮れた二人は、結局、大同門で焼肉を食べた・・・、というオチがつく。
う~ん、私やったら初デートでこれは厳しいなぁ・・・と思う。
よく母はこの後、父と交際し、結婚までする決心をしたものだ、と。
母は言う。
「これはなぁ、のび太くんとしずかちゃんみたいなモンやねん。お父さん、お母さんに心底惚れてるし、もう情けなくって見てられへんかってん。」
・・・・・。
まぁ、父が母に夢中だったのはホントだろうなぁと思う。
母の若い頃の写真は、娘の私が言うのもなんだけど、相当な美人だった。
私が小学生の頃、参観日に子ども達が密かに行う「おかあさん品評会」で、みんなから必ず「fuyuちゃんのお母さんが一番キレイや!」と言われることが、私のちょっとした自慢だった。
(しかしその母から生まれた子ども達は、恐ろしく平凡だったけど。。)
その後めでたく母と結婚した父は、もしかしたら、この苦々しい思い出にリベンジをするために、あれだけあの店に通い続けたのかもなぁ・・・?とふと思う。
けれども、いつの頃からか私たちは、もうその店には行かなくなっていた。
私は中学から高校にかけて、結構な反抗期で(反省)、もう家族で食事なんてめったにしなくなったからかな、と思っていた。
でも、実はそうではなくて、あの「マスター」が店を手放してしまったからなのだという。
マスターが代わって、味は一気に落ちてしまった。
だからもう行かないんだ、と。
今から何年か前、私は北新地を歩いていて、偶然にも、同じ名前で営業しているそのお店を発見した。
なんだか店の感じは随分変わってしまっていて、場所ももしかしたら少し変わっていた気がしたけれど、私はすごく嬉しくて、母を誘って久しぶりに、そこで食事をすることにした。
入ったとき、店に昔の面影は、まるでなかった。
メニューもすっかり変わっていて、もう何を頼んだか覚えてないけど、値段のわりに味はイマイチで、結局がっかりして帰ってきてしまった。
最近母に聞いた話によると、そのかつての「マスター」は、今度はうちの近所の住宅街に、同じ名前のお店をオープンしたのだそうだ。けれど、またそのお店もマスターの借金で、すぐなくなってしまったらしい。
あのおじさん、まだ元気にしてるといいな、と思う。
まぁ、元気ってわけにはいかないかな・・・。
今、父が「外でゴハン食べよかー」というと、必ずお寿司屋さんである。
たまに家族が実家で揃うと、必ず、そのお寿司屋さん。
父は、そのお寿司屋さんしか、行くところを知らない。
その店、値段のわりにめちゃめちゃ美味しくて、何もかもが新鮮で、これまた地元の有名店である。
常にお店は大繁盛。なのに父は「大将!あとで行くからカウンター、空けといて!」とワガママなことを言って、お店の人を困らせる。
そういう人だ。
何はともあれ、今年で父と母、結婚30周年を迎える。
困ったのび太くんと、並大抵でない苦労で彼を支えてきたしずかちゃんに
心を込めて花束を。
My Love ベルギー [旅日記]
また行ってしまいました。
最愛の国、ベルギー。
この仕事を始めて以来、よく旅をするようになったもんだと思います。本当に幸運なことです。日本で勤めていた数年間は、ついに一度も海外旅行なんて実現しなかったもんだから、その反動なのかも。
こんな夢の中でふわふわ暮らしているような生活がいつまでも続くわけはない、とふと思うこともあります。文字通り、「地に足が着いてない」暮らし。
この業界を去る先輩が、「私、足を洗うの」と表現していた時、妙に納得してしまいました。
そんな感じ。
まぁ、この話は追々また書くかもしれませんが。
とりあえずは、私のLOVEベルギー♪下手っぴ写真展。
前回までの旅ではブリュッセルのみでしたが、今回は初めてアントワープ&ブルージュへ行ってきました。

『フランダースの犬』の街、アントワープです。
中央に聳え立つのは、ネロとパトラッシュ最期の場所となったノートルダム寺院。
よく知られている話ですが、この『フランダースの犬』は元々、地元ベルギーでは全く知られていなかったのだそう。ところがこの物語の軌跡を求めてあまりに多くの日本人観光客がやって来るため、日本のアニメーションが逆輸入される形でベルギーに紹介され、今では世界中で多くの人が知る物語となったのだそうです。
当初はあまりに悲しい結末のために、ベルギー人たちからは不評だったらしいですが。

寺院の中では、天井画の修復作業をしている女性がいました。

・・・・これは買いでしょう。(※ポストカード、20¢均一カゴで見つけました。)
そしてアントワープといえば、デルレイのチョコレート!

もう目がとろ~んとなってしまいそうな、色とりどりのケーキにチョコ達。お店の写真、撮ってくるべきだったかなぁ・・・。でも、なんだか地元マダムの高級社交場的な雰囲気に、ちょっとはばかられてしまった私。。
お味の方は・・・もうなんとも説明できません!
カカオがふわぁ、クリームがとろっ、香ばしいナッツがジャリッ、のハーモニー・・。
アントワープからブルージュへ向かう電車の中で友人と、うっとりしながら味わっていると、やって来た車掌さんが、
"Excuse me ladies, but this is very bad.....for your figure!!"
(すみませんがお客様、これはダメですよ・・・あなた方のプロポーションには!)
と、ニヤリと笑って去っていきました。
・・・ハイ、分かってます。
さて、アントワープから電車に揺られること1時間半、水の都・ブルージュに到着です。

街中を行きかう運河、かわいらしい建物。
行く前、誰かに「ベネチアを小さくしたようなモンらしいよ」なんて聞いていたんですが、またそれとは全然違った趣があって、本当にステキなところでしたよ。
なんていうか、街の規模は小さいんだけれど、その中にステキな風景やかわいらしいお店、おいしいもの、そして優しい人々がぎゅーっと詰まっている感じ。
そう、人が優しいのです。
旅先では、よく観光客をバカにしたようなイヤな人に、一人くらいは会ってしまうものだけれど、ここブルージュでは不思議なくらい、人が温かくて、笑顔がステキで、じーんとなりました。
某有名チョコレート店で「オススメは?」と聞くと、おじさんが「食べてごらん!」と売り物のチョコを分けてくれたり、お惣菜屋さんで迷っていると「これおいしいのよ!」とおばさん、いろいろ教えてくれたり。

これは街の中心マルクト広場近くにある、デルディック(Deldycke)というお店のお惣菜。
見た目の美しさもさることながら、味が絶品!
さすがは食の国、ベルギーです。
(ホント、ハズレがない。)

ここは愛の湖公園(に、女二人。いいんだけど。)
その昔、港だったという水の流れを水門で仕切ってできた池らしく、穏やかでロマンティックな公園です。
広場に立ち並ぶブラッセリー!

と、いうことは。

ビールです。
・・・なんか前回ブリュッセルの記事書いた時も、アホみたいにビールを並べた写真を載せてしまった気がするけれど、うーん・・・。でもね、やっぱりビールなんですね、ベルギーは。
毎回そうだけど、もうブラッセリーでのビールの種類に圧倒されます。

私のNO.1ビールといえばシメイ・ブルー(左・La Chimay bleue・アルコール度数9.0%)で、どんなに迷っても滞在中一度は飲んじゃうわけですが、クリーク(チェリービール)などのフルーツ系なんかも好きです。(ちなみに右のデュベルもクリーミーな泡立ちで美味。度数8.5%)
ビール好きな方はご存知かと思いますが、ベルギーではビールによってグラスの形が全て違います。(同じクリークでもメーカーによって違ったりする。ムズカシイ!)
で、まぁフルーツ系のビールは大体こんな細いグラスが多いんですが

(写真はフランボワーズですが)
今回は"500mlで!"とお願いしたところ

・・・ジョッキが来てしまいました。
友人から「ジョッキでクリーク飲む人初めて見たわ・・・」と呆れられつつ。
うまいです。
(しかしこんな朝から晩までビールを飲み続ける女・・・どうなんでしょうか。イタダケナイ?)

ついでにビール醸造所の見学にも行って来ました。
(もちろん終了後、ビールがもらえる♪)
ホップのいい香りがそこら中に、ほわ~っと漂っていました。
今回の旅で唯一残念だったのは、お天気がずっとすぐれなかったこと。
私が住む街もそうなのですが、今ヨーロッパ、毎日雨が降ったり止んだりで、めちゃくちゃ寒いのです。
まぁこれが夏の暑い気候だったりしたら、ビールの消費が跳ね上がったものと思われるので、良しとすべきか・・・。
丸三日、食べて飲み続けて、ほろ酔い気分で空港に到着した私たち。
チェックインを済ませ、搭乗口へ向かう途中、「おっ、まだ時間あるやん!」というわけで

空港内で、締めの一杯をいただきました
ビール好きな方、チョコレートに目がない方、ぜひぜひいらっしゃってください。
私のように虜になってしまうこと、間違いなしです!
おすすめは秋です。シーフードがおいしくなるから。
バケツに山盛りのムール貝、生牡蠣、そしてジビエ(狩猟)料理も。
・・・しかし気楽な生活してるわ、私。
28.応募書類 [CAになるまでのお話]
気がつけば、いつの間にか100nice!を突破!!
私のこんなしょーもない記事に、いつもnice!をクリックし、コメントを残してくださる皆様、感謝感謝です。
ちなみに100個目を踏んでくださったのはJOHNさん。
JOHNさんからは同じサービス業に就く者として共感すること、学ぶことがとても多くて、読ませていただくたびに背筋がピンッとなります。ホントに素敵なブログです。
皆様、いつもありがとう。これからもよろしゅう。
続きです。
JAPAN TIMESに掲載されていたその求人は、某外資系エアラインの機内通訳でした。
実はこのエアライン、私にはちょっとした思い入れがありました。
それは、私が初めて乗った、日系以外の航空会社だったんです。
たくさんの外国人クルーのなかに、ぽつんと乗務されていた日本人クルーの方を、私は未だにはっきりと覚えています。
彼女の名前や、日本人乗客の為に笑顔を絶やさず一生懸命応える姿。
この頃は大学に入りたてで、まだ客室乗務員になりたいなんて思ってもいなかったはずなんですけどね。
でもこのときから、心のどこかで潜在的に、憧れみたいなものを持ち始めていたのかもしれません。
早速、応募書類作りにとりかかりました。
まずは応募資格をチェック。
年齢制限なし。 とりあえず、ホッ。(日系・アジア系などは、まずこの項目でアウトですから。)
英語堪能。 まぁ、堪能ではないけどさ、努力してるもんね。
韓国語または中国語が堪能であること。
・・・・・・。
・・・・・・・?
韓国語?または中国語???
トッ、トライリンガルですか・・・・。
実は私、留学から帰国後、密かにずっと韓国語は習い続けていたのです。(韓流ブームのもっと前よー。留学で、韓国人の友達がたくさんできたから。)
でも、でも、ぶっちゃけハングル検定4級レベル。つまり、仕事で使える韓国語なんてまだまだまだまだ程遠ーい、ってレベルでした。
あぁ・・・、こんなことならもっと真面目にやっとくんだった。
しかし、後悔先に立たず。
とにかく、くよくよする前に、書類選考を突破して面接に辿り着かねば!!でした。
レジュメ・カバーレターは、ずっと昔に作ったものを、いつも適当に修正し、社名と日付を入れ替えて使い回しをしていました。
でも、自分自身の紹介文であるカバーレター。
今回は、きちんと自分の思い入れが伝わるものを書こう。
そう考えて一から作り直すことにしました。
まずこの会社のHPを見て、サービスの紹介に多用されている単語や、新たに就航する路線をチェックし、自分なりにどんな印象をもっているか、またどう役に立ちたいかを、若干(いや、かなり)誇張気味に、文章にしました。
自分の売り込みに、日本人独特の謙虚さなんて不必要ですから!
例えば韓国語に関して、実際はまだまだイケてないなぁ・・・と感じてたって、"I have mastered a basic level of conversation."(会話の基礎レベルはマスターしました。)くらい書いちゃうとか。
だって「まだあんまりできないんです・・・」なんて人より、「これくらいは出来ます!これからも努力します!」って姿勢の人に、会社は会いたいと思ってくれるハズでしょ。
自信のない人間になんて、誰も会ってくれない。そう思います。
詐欺やん!と言われようとなんだろうと、ワタシ的にはまずワンステップ進むことが第一でした。
「外資系への応募書類」の類の本と辞書を手に、毎日スタバにこもって書類作成に明け暮れました。
そして試行錯誤の末、数日後、英会話スクールで出来上がった書類のチェックを受けました。
まずは英語の履歴書であるレジュメから。
学生時代にスクールで習ったひな型を元に、もう何年も使い続けてきた書式。完璧!と思い込んできたものでしたが、・・・実は見事ダメだしの連続でした。
本当に些細なことでした。例えば・・・
・20XX年にTOEIC 840点というのを TOEIC:840 / 20XX としていたんですが、これでは米人には"20XX点満点中の840点"に見えてしまう! TOEIC:840 in 20XX とすること。
・身長&体重を Height / Weight : 170cm / 55kg ではなく Height : 170cm Weight : 55kg と書くべし!
・・・とかね。
私達からすれば「何が違うんだ?」ってなことだし、/(スラッシュ)なんて意味なく多用しちゃうけど、実はスラッシュには分数の真ん中の線の意味があって、私の書き方では欧米人にとても見づらいこと、また何千通という応募書類のなかでリードする為に、少しでもよりクリアーであること。
レターもしかり。
個人レッスンで、そんなことを徹底的に叩きなおされたのでした。
(ここまでしてくれるのは、大手B社さん。「外資面接があって…」とリクエストすると、実際面接官の経験がある人や、その研修を修了した先生を用意してくれるんです。高いだけのことはあるよ。オススメ。)
さて余談ですが、通常、エアライン応募書類の基本は、英語のカバーレター・レジュメ、日本語履歴書、そして全身写真の4点です。
ちなみにこの時は、全身写真の記載がなかったので私は送りませんでした。
よく、『指示はないけど、常識的に添付すべきでしょうか?』なんて質問が、クルー志願者の掲示板にありますが、私はそうは思いません。とにかく、会社側の指示に忠実であることが一番だと思っています。
あと、英文レジュメには普通、写真なんて添付しませんが、『顔写真をクリップでつけておくと親切です』なんてスクールで習ったことがありました。が、これもあんまり関係なかったように思います。つけなくたって通る時は通るし。
「CA受験の暗黙のルール」みたいなのが、他にもたくさんありますが、あんまり情報に振り回されるのも意味ないことだったかな、と今は思えます。
さて、こうして汗と涙と熱い思いをぎゅうぎゅうに詰め込んだ書類を投函し、待つこと一週間。
無事、書類選考を通過し、「筆記試験のご案内」を手にしました。
いざ、東京へ!
新幹線に乗り込んだ私は、ワクワクしていました。
27.再始動 [CAになるまでのお話]
「なるまでのお話」久々に更新します。
いったい、前回何がどうなって終わっていたのか、もう分かんないですよね。(私も分からん。)
そんな方は、カテゴリーから「CAになるまでのお話」さかのぼって下さい。ホンマすんません。
さて、新卒で勤めた会社を辞め、1年の語学留学を経て、帰国後勤めたレストランを辞め、また無職に戻った私。
岐路に立っていました。
どこかに正社員として就職し、安定した日々を目指すか。
叶うかも分からない夢を追い続けるか。
私なりに迷った末、下した決断は「あと2年」
あと2年で叶わなければ、もう二度と振り返らない。縁がなかったのだと納得する。
そう決心して、私は準備を始めたのでした。
この時点で、私は結構いい歳でした。(CA受験生としては・・・ね。)
けれどももう一度頑張ろうと思ったのには、私の中で以前と比べ、ある変化があったからのような気がします。
大学を卒業して以来、私はずっと接客の仕事から遠ざかっていました。
営業として数字を追いかけ、深夜まで会社でパソコンを叩き、惨めになりながら、なんとか憧れの華やかな世界へ逃げ出せないか、ずーっと考えていました。
当時私がCA面接用に作った『自己分析ノート』(なーんて聞こえは良いけど、中身はただの面接セリフ集)には、
・人との出会いが喜び、やりがい
・国際的な仕事を通じて、自身も成長したい
・御社で受けたサービスが忘れられない ・・・・etc
・・・的なことが書き綴られています。
これでも頭を絞ったんだろうなぁ、あの頃。しかし言い回しを変えながら、何度も何度も同じことを書いてる私。
志願者なら誰でも言える、薄っぺらい、極々ありきたりな内容。
今読み返すとよく分かるけど、あの頃の私は、どうしてそんなに接客の仕事がしたいのか、自分でもよく分かっていなかったのだろうと思います。
心の底から込み上げる熱意がないから、借りてきたみたいな言葉になる。だから表情だって、きっと借り物みたいに固かったハズ。
そんな失敗を4年も5年も続けていたのでしょう。
しかしそれから、レストランで再び接客の仕事を経験。
自分なりに試行錯誤しながら、一生懸命やってみた。
思えばこれが、一番の転機だったように思います。
この頃のノートになると、仕事の中で実際にあったエピソードに加え、恥ずかしながら私はこんなことを書いています。
「サービスは無償の喜び。人に喜んでもらえることが、自分自身にパワーを与えてくれて、幸せな気持ちを運んできてくれる。だから頑張れるのだと思う。」
・・・ま、不器用な表現ですが。
つまりは、お客様をハッピーにすることができたら、それが必ず自分にも返ってくるのだと。そんなことを日々実感し始めていたのだろうと思います。
☆:*..☆..*;☆..☆.*;..☆☆:*..☆..*;☆..☆.*;..☆
帰国から1年経って、まずは英語のブラッシュアップが不可欠でした。
日常会話程度はこなせるようになったものの、面接で自分の意思を正確な言葉でしっかり伝えられるか、さらには日々の業務で差支えがないか、まだまだ不安がありました。
2年と期限を決めたからには、絶対に後悔しないだけの自己投資をしよう。
そう考えて、私は英会話スクールのプライベートレッスンに通い始めました。
これはおサイフ結構痛かった!
なんせ1年勤めて少しずつ貯めたお金をまた全部つぎ込んじゃったんですから。
でも、これがなかったら、今日の私はなかったかも・・・と思います。
とにかくこの時の私には、グループレッスンで他の日本人が喋ってる英語に耳を傾けてるヒマはなかったんです。
私の場合は接客・電話の英語、そして外資系への応募書類チェックと面接の練習と、必要なものだけに焦点を当てて、1対1で集中する必要がありました。
今思うとこの時間は、留学中に語学学校で大勢のクラスメイトとだらだら過ごしていた頃や、スチュワーデススクールでお辞儀の角度を習っていた時よりよっぽど中身があって、有意義だったように思います。
なぜなら、今の自分に欠けているもの、努力しなければならないパートがはっきりしてきたから。
具体的に動き出したのは、この頃からだと言ってもいいかもしれません。
そんな生活を始めた矢先でした。
いつものように、月曜のJAPAN TIMES求人欄をぱらぱらめくっていた時のこと。
目に飛び込んできたのは、ある外資系エアラインの求人広告でした。
生きてます!
1ヵ月半ぶりの更新です。
まずいなぁ・・・、このペースで行くともう今年は4、5回しか更新できない?!
ここんとこあまり家にいなかったというのもありますが、なんだかこう、ブログで文章にするような考えがまとまらないというか、なんか、『保存』ボタンを押すに踏み切れるほどの内容も思い浮かばなかった・・・、というのが実際のところであります。
なにもそこまで考えて書くほどのものでもないハズなんですけどね、ブログ。
ほら、なんか自分のヒストリー的なものを書いてみたりしていたので・・・。
いろいろ思い出せなくなってしまって・・・。
(しかし、これだけ止めても閲覧数が日々増え続けているのはありがたいことです。見てくれてる皆様、すいません。。)
4月、ですね。
先日、成田で見た桜はちょっと盛りを過ぎていたけれど、やっぱりいいですね。
あのふわふわしたピンクがどこまでも続く景色は、世界中のどんな春の風景よりもダイナミックで、安らかで、美しいと心から思います。
日本人でよかった!
で、その日、成田のホテルで、まだ初々しいスーツにペンで書かれた大きな名札をした、どっからどう見ても新入社員の皆さんをお見かけしました。
いいなぁ、若いなぁ(いや、私も若いぞ)、なぁんて私の初就職のころを思い出したりしていたら・・・
あれ・・・
あのロゴは・・・
私の元いた会社や~ん!!
そう、正に私が新卒で入社した会社の研修が、こーんなところで行われていたのでした!(超偶然)
急に親近感が湧いてきて、話しかけたい衝動に駆られましたが・・・、しかし「私もアナタの会社にいたんですよ!・・・3年以内で辞めたんですけど」と言うわけにもいかず。
けどなんだか胸がじーんと熱くなりましたね。
あの頃、もう何を習ったかなんて忘れてしまったけれど、着慣れないスーツに身を包んで、緊張の連続で。
同期になるみんなと夜遅くまでいろんなことを話したり。
この研修が終わったら、みんな全国各地へ散って、本当に「社会人」になるんだ・・・なんて、とてつもない不安に襲われたり。
そんなことを思い出していました。
正直(というか、もうブログで書き続けてるけど)、あの時はまだ客室乗務員への憧れがいっぱいで、どうしてもこの会社で「営業」をするという事実に前向きになれなくて、結構暗かったんです。
研修中、「どうせ辞めるんだから」と心の中で悪態をついたり、かと思えば「あぁ、私はもうずっとここにいるんだ・・・」と観念して諦めたような気持ちになったり。
結果的に私は「夢が叶って」ではなく、仕事の重圧から逃げ出すような形で辞めてしまうわけですが、でも今振り返ると、やっぱりあの会社で、あの経験をさせてもらえて本当によかったなって思うんです。
ちょっと美化されてるかな?
何年も経って言うことだから勝手だけれど、でもあの時、歯を食いしばったからこそ今乗り切れることがあるし、このゆとりのある生活のありがたみが分かるし、
何より、初めて働いた会社で出会った同期たちは、今でもかけがえのない心の支えなんです。
"Everything happens for a reason."
あの頃、苦しんでいた自分に教えてあげたい。
この先には、あなたの想像もつかないような素晴らしい未来が待っているんだから。
だからそんな暗い顔をしなくていいんだ、と。
この春社会へ出て行くすべての人に、新しい世界で素敵なことが起きますように。
祈っています。
すべての人に、素敵な未来が訪れますように・・・
こんなん見つけました。
最近おうちに引きこもっています。
セールが終わってお金もないし(涙)、なにより勉強!
・・・って、何を勉強しているかと言うと、年に一度のテスト&トレーニングに向けてであります。
安全や機材、ファーストエイド等々、これにパスしないと乗務資格が更新されないという、とても面倒くさいやりがいのある、リフレッシュメント・トレーニング♪
真面目にやってます。
けど、集中できないなぁなんて思ってお散歩していたら・・・
うちの近所に小学校があるんですけど、そこでこんなカワイイものを見つけました。

誰ですか、「何このおっさん」なんて言ってる人は。
そう、偉大なるモーツアルト。(みんな、結構ポイント押さえてると思いません?)
今年は生誕250周年。
ヨーロッパのみならず日本でも、オペラやオーケストラの来日特別公演などなど、イベントが目白押しです。
でもせっかくのモーツアルトイヤー
ここヨーロッパにて、皆様のお越しを心よりお待ち申し上げておりますm(_ _)m
26.祖母の死 [CAになるまでのお話]
こんにちは、またご無沙汰してしまいました。
気がつけば、1月一回しか更新していなかった~!!
なんかいろいろあって、冬に突入してからほとんど家にいなかったんですね。
というのも、極寒からの脱出。(仕事はしてます。)
おかげで食料は尽きるわ、ブログは滞るわ、家は荒れ放題です・・・。
ブログ、途中でほっぽり出したりしません!
(辞めるときは辞めるって言います。)
だから、忘れないでね。
さて、前回のお話はなんだったっけな、と読み返してみると、「フレンチレストランでのお仕事にやりがいを見出してきた!」みたいなところで終わっていました。
しかし、この仕事も1年ほどで辞める時がやってきたんですね。
原因の一つは過労でした。
だいたい月に26~27日くらい、出勤していたと思います。朝のランチの準備から、深夜の閉店まで。
毎月シフトを眺めながら、「私はここで死ぬんかもしれん・・・」と思っていました。
また、ちょうどこの頃、一緒に暮らしていた祖母の体調が急激に悪くなった、というのもありました。
80を過ぎるまで、骨折以外で一度も入院なんてしたことがなかった超健康体の祖母。
こういう人が100歳くらいまで生きるんだろうなぁ・・・、なんて思っていた祖母が、ある日突然「食欲がない」と言い出し、みるみるうちに食べることができなくなっていきました。
ある日仕事から帰ると、母が神妙な面持ちで待ち構えていました。
「おばあちゃんなぁ、今日入院してん。あかんかもしれん。」
そしてその次の日から、母の病院通いが始まりました。
うちは自営業なので、病院と仕事を行ったり来たりする母。家の中も徐々に荒れ始めました。
なんだか今思うと、正直、祖母のことを仕事から逃げ出す理由にしてしまったような気がしないでもありません。
ただ、そろそろ体を休めたい・・・と思っていました。
しかしあの時は1年勤めたことを「長かったな~」なんて思っていましたが、私ってやっぱり忍耐力がなかったんですね。
所詮バイトではありましたが、この先なんの目処もたっていなかったわけであって。
かくしてまたも、いい年して「ニート」の仲間入りをしてしまったのでした。
もちろん労働は国民の義務であって、普段歩いている道路一つとってみても、働く人々が納める税金で成り立っているわけですから、何を言い訳するわけにもいきません。
ただ、これは私の場合なんですけど、あの頃を振り返ると、どこかどんよりしていました。
「本当にやりたいことは他にある」って、この先ずーっと思いながら、このまま何かを諦めた私で人生終わっていくのかな?
そんなことを一人考え始めると、泣きたいような、衝動的に逃げ出したくなるような、そんな日々の繰り返しでした。
そして一度逃げ出してしまうと、引きこもってしまう。
ぬくぬくした世界に落ちてしまう。
働くことを考えると、あのどんよりが襲ってきて、もう扉を開けられなくなってしまう。
・・・そんな感じでしょうか。
私も少しの理性と、接客のなかで時々訪れる嬉しい瞬間で、なんとか保っていたのかもしれません。が、家の問題が出てきた時、私の我慢の糸が弾けてしまいました。
これがいい機会だ、と。
こうして私は「家事手伝い」になりました。
仕事を辞めて、私の生活は一転しました。
おばあちゃんの病室での付き添い、犬の散歩、夕食の準備。
祖母が「食べたいなぁ・・・」と呟いたものを買いに走ったり、腹水で寝返りが打てなくなった体を毛布で転がしたてあげたり。
その合間は英会話の教材を読んだりしていました。
突如として寝たきりになった祖母を見ていて、毎日不思議な気持ちがしていました。
本当に逝ってしまうんだろうか・・・・。
だって、ありえない。
ついこの間まで、一緒の食卓を囲んでいたおばあちゃん。
私の働くレストランを偶然テレビで見て以来、「いつ連れて行ってもらおうかねぇ・・・」と1日10回は呟いていたおばあちゃん。
・・・ありえないっしょ。
その一方で、
こんなことになるなら、どうしてもっと早く、ウチの店に連れてきてあげなかったんだろう・・・
私あの時、「めんどくさいなぁ・・・」なんて思ってしまったな。
自己嫌悪にも陥りました。
**************************************************
「若い人の方が進行が早い」なんてのは本当でしょうか。
1、2ヶ月のうちに、腹水で体がみるみるうちに膨れ上がり、黄疸が出始めた祖母を見ていて、実感するのにそれほど時間はかかりませんでした。
本当にもうダメなんだな・・・と。
自分の病状について何一つ知らされていない本人。
こうして今、自分の人生が終わろうとしていることを、この人は知っているんだろうか。
昔、ドラマか何かで誰かが言っていました。
「死ぬ時に、どれだけ素敵な思い出を持っていくことができるか・・、それでその人の幸せは決まるんだ」って。
おばあちゃんは今、この世に生まれてきてよかったって、そう思える楽しい思い出を抱えてるかな。
そして私は・・・
働き盛りの20代後半で、なんの職にも就かず、親のすねをかじってる。
これから、どうするべきなのかも正直わからない。
「私なぁ、仕事辞めてん。無職やねん、また。」
ふと病室で呟いた私に、祖母は言いました。
「ええやないの・・・。少し、ゆっくりしなさい。」
「うん・・・。」
「若い人はなぁ、ちょっと働きすぎやわ。もうちょっと、休みなさい。」
「・・・・・・。」
情けないな・・・。そう思いつつも、もう泣く元気もなく、ただぼんやりと毎日病室の片隅に座っていました。
そんな日々が数ヶ月続いた後、しばらくして、祖母はいよいよ昏睡状態に陥りました。
もう私が何を一人で呟いていても、反応しなくなりました。
ある日、私はその場にいなかったのですが、もう寝返りさえ自力では打てないはずの祖母が、ものすごい力で上体を振って起き上がったのだそうです。
そして、その場にいた病院の先生と看護士の方に、「ありがとうございました」と言いました。
そして、母に、「いままでありがとう」と言いました。
そして数日後、おばあちゃんは帰らぬ人となりました。
人とのつながり
あけましておめでとうございます。
・・・って、もうそんな日付でもないか。
大変ご無沙汰です。。
なんか気がついたら年が明けていました。
いままで年越しの瞬間、必ず誰かが一緒でした。
家族だったり、友人だったり。
それが、今回は疲れ果てて一人ソファで転寝していたら、朝を迎えていました。
・・・・・・寂しい。
私の生活が荒んできたのか、
世間のイベント的な瞬間に執着しなくなったのか、
それとも私の人間関係が希薄になってきたのか・・・・・?
元日、どこかの上空を飛びながら、ぼんやり考えていました。
私は同僚たちから入社早々、同期の中で「団体行動ができない人間ベスト3」に選ばれてしまったことがあります。
実際わりと一人の時間を楽しんでいる風に見えてるタイプなんだと思います。
誰かに会うときも、自分からじゃなく誘ってもらって出かける方が圧倒的に多いし。
けど実は、それを寂しいと思わないわけではないんです。
心の奥底では、知人たちとのつながりに人の何倍も執着しているんだと思います。
ただ、それを素直に人に表現できなくなってしまったんだと。
そのきっかけは、昔の痛い経験にあります。
それはまだ学生の頃。
バイトで仲の良かった男友達がいました。
バイトのあと一緒に二人でゴハンを食べに行ったり、休日みんなで遊びに行ったりして、私はずっといい友達だと思っていました。
けれどお互いバイトを辞め、徐々に会うこともなくなっていきました。
それから1年か2年ほど経ったある日、たまたま用があって電話で話す機会がありました。
私は「久しぶりなんだし、ゴハンでも食べようよ」と誘いました。
久々に会った彼はとても無口でした。
話になんの花の咲くこともなく、徐々に気まずい空気が漂ってきました。
そして彼がぼそっと言ったのです。
「あのさ、例えば電車で久しぶりに俺がFuyuのこと見かけたとするじゃない?俺さ、もう声かけないと思うんだよね。」
「・・・なんで?」
「なんでって、そういう関係だってこと。」
不意に奈落の底へ突き落とされたような気持ちになりました。
今でもあの瞬間を思い出すと、胸が苦しくなります。
確かに彼は、親友と言えるほど深い友達でもありませんでした。
当時彼が好きだった子が、私ととても仲が良かったので、グループ交際的なところで利用されていた感もありました。
それでも、二人で話すこともたくさんあったし、また友人の一人として続いていけばいいな、くらいには思っていたんです。
この出来事があって以来、私は警戒するようになりました。
彼にとって私が友人関係を続けていくほど魅力的ではなかったのか、それとも彼が昔のつながりになんて執着しないタイプだったのか、わからないけど(多分どっちも正解なんだろうけど)。
以来、私はむやみに人に自分から連絡したり、誘ったりすることをずっと避けてきました。
昔の友人が今どうしてるかなんて、人にとってはどうでもいいことだ。
連絡されるなんて、煩わしいことなんだ、と。
年賀状も、日本の会社を辞めてから、ほとんど書かなくなりました。
ずっと怖かったんだと思います。
2006年、今年一発目の仕事から戻ってきて、私はもう何年も疎遠になっている友人たちに、一斉メールを送りました。
”どうしていますか?”
半分くらいの友人から返事が来たと思います。
なつかしい彼らの写真が添付されてきて、嬉しい気持ちになりました。
残りは、なしのつぶてか、もうアドレスがクローズされてて戻ってきてしまったか。
連絡がとれなくなった彼らと最後に会った時のことを、思い出したりしていました。
あの時、これが最後になるなんて思っていたかな?
少し寂しく思いましたが、恐れていたほど悲しいことではありませんでした。
こうして彼らにはまた別の新しい出会いがあって、私も新しい人たちに出会っていくんだと。
思えば私がブログを始めたのって、新しい世界とのつながりが欲しかったからじゃなかったのかな?
誰かのブログで読んだことを、まるで友達から聞いたように人に話してしまうこともあったりして。
今年も、たくさんの素晴らしい出会いがあればいいな、と思っています。
というわけで、今年もよろしく☆
VACATION2~in 西海岸 [旅日記]
私の思い出の街、世界で一番好きな街、サンフランシスコです。

私が住んでいたときと何ら変わらない、懐かしい景色です。
フィッシャーマンズワーフへ行くのに、久しぶりにケーブルカーに乗ろう!と、飛び乗ったのですが・・・、なんと2年前は一人2ドルだった運賃、5ドルに値上げされていました。
(かなりの法外さにびっくり。)
こちらは私が当時、中国人家主と韓国人、インドネシア人の学生とシェアしていたおうち。

なーんも変わってなかったな。かつてフレンチとのシェアに耐え切れず、レジデンスホテルから飛び出した私を救ってくれた、あったかい家です。(詳細はこちら。)
さて、またまた食です♪
サンフランシスコはとにかく何を食べてもウマイ!!
移民の街だけあって、やっぱりエスニックは充実しています。
特にタイ、チャイニーズ、インド・パキスタン・・・などなど、アジアンは本格的。変わりどころでは、エチオピア、ペルジアンなんかも○です。
毎晩のように外食してぷくぷく太ってました。
そんな中でも、私が恋しくて恋しくて仕方なかった一品がこちら。

ベトナミーズ・サンドウィッチ。
バゲットにフレッシュな人参、パクチー、グリーンペッパーなどをたっぷり挟み、好きなお肉(チキン、ポーク、ミートボールなど・・・)を入れてもらいます。
ソースが美味しいんです!ナンプラーだか、ガーリックだか、よく分かんないんだけど、ベトナムテイストの独特なソース。
私と彼がNo.1だと思ってる店は、テンダーロインと言うかなり治安の悪いエリアまで行かなくちゃいけないのですが、それでも行く価値あり。
これ、日本やヨーロッパでも売ってるよ~という情報お持ちでしたら、是非教えていただきたいです。もう思い出すだけでもよだれが・・
あと、サンフランシスコの定番といえばこれですね。


クラムチャウダー。そしてカラマリフライ。
私はこのスープが入ったサワドゥーと呼ばれる、酸っぱいパンが大好きなんです。
普通はみんな、器のパンは食べないんですが、私たちは常に完食。
サンフランの食について挙げだすと、もう何ページあっても足りないので打ち切りです。
さて、ベガス。
変な影はホテルの窓ガラス。
ベラッジオの噴水ショーです。
あの、音楽にあわせて大量の水がダンスの如く、動くやつ。

これ、ロマンチックな雰囲気なのでしょうが、いつも笑ってしまうのは私だけでしょうか・・・
この日はエルトン・ジョンに合わせて水が踊っていましたが、私は「ヒップホップやったらオモロイな」とか思って見てました。
さて、子どもの頃から毎年家族でラスベガスへ来ていると言う彼が、「何年ぶりかに行って見たい」と言い出した場所。
それはチビッコでカジノに入れなかった彼がいつも置き去りにされたという、「サーカスサーカス」であります。
ゲーセンをはじめ、子どもが楽しめるコーナーが充実した、当時は唯一の場所だったそうで。
こんなのとか
チビッコと競馬ゲーム(ボールを穴にいれると自分の持ち馬が進むの)とか

輪投げで身を乗り出して不正する彼

私、サーカスサーカスに着いて早々1ドル放り込んだスロットで50ドル!勝ったのですが、もうそれを全部ここで使っちゃったんじゃないかなっていうくらい、彼は燃えていました。
多分、全コーナー制覇したと思う・・・
最初は「アンタ、いくら使う気なのよ~」なんて思っていましたが、輪投げをしながら子どものようにはしゃぐ彼を見ていて、なんだかホッとするものがありました。
私にも母性本能があったのか。
男の人って、いつまでたってもこういうのが好きなのかな?
さて、今回のラスベガスは快勝☆でした!
この日はもうどこへいっても笑いが止まらないくらい。
私知らなかったんですが、あんまり勝ち続ける客がいると、ディーラーが次々交代させられちゃうんですね。相性ってあるのかな?
でも、ついてる時は関係ないです♪
で、ここでやめときゃいいんだけど、やめられないのが悲しい性。
最終日には、見事きっちり回収されました。
それがラスベガス。






